[转帖] 【苏联垮台20年 —解不开的诅咒—】—序幕(上) “流血星期日”之安魂祈祷

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【苏联垮台20年 —解不开的诅咒—】—序幕(上) “流血星期日”之安魂祈祷
轲之心于2011-02-21 21:13:20翻译 | 已有1294人浏览

《产经新闻》回顾关于苏联解体的系列文章之一。苏联是前车之鉴,了解这段历史可以帮助头脑清 醒点。

Tags:俄罗斯 | 苏联 | 共产主义
  
12日夜,原苏联立陶宛首都维尔纽斯的电视塔周围,被安魂的火焰染得通红。暴风雪中,有男女老幼数千人造访电视塔,他们点燃了蜡烛为当年的亡者祈祷。20年前的1月13日凌晨,苏联武力介入欲求独立的立陶宛,保卫电视塔等设施的人群中,有14人在冲突中死亡,140人身受重伤,这就是历史上的“流血星期日事件”。冉冉烛光,吊唁的就是这起事件中的牺牲者。

当夜,有一名女教师(38岁)带领20名儿童,从100公里外的某地方城市赶来参加吊唁,她说:“当年那会儿,我还是大学生,保卫议会行动我也参加了。如今,人们可以自由自在地出国了。我们想把曾经梦想的自由的价值教给孩子们。”追悼仪式上,立陶宛首相库比留斯及国防部长尤克涅维切涅也先后献花,并当场再度立誓要坚持独立。



在市民的根据地议会大厦前,曾是独立运动核心人物的立陶宛原最高会议议长兰茨贝吉斯(Landsbergis)作了演讲,他强调了历史的意义,称“人们感觉恐惧后,欧洲的历史和版图就变得跟今天不一样了吧。”(译者注:这句话若不根据演讲上下文,意思不太明确)

1991年1月8日,苏联军队为镇压立陶宛高涨的独立运动,投入了空降部队。13日凌晨,苏联军队出动欲控制维尔纽斯的电视塔和国营电视台,袭击了聚集在那带的群众。

“流血星期日事件”鲜明地反映出,当时苏联戈尔巴乔夫政权的改革进退维谷,苏联体制的维持已经难以为继了。

主导了这起事件的苏联保守派于8月发动政变,结果失败了;9月,波罗的海三国齐齐独立成功,苏联顿时闪电般解体了。

■ 改革失速“终焉,始焉”
▼ 愈合不了的悲伤

“各位观众,这是最后消息。电视台被占领了。士兵们在楼里巡视。我们留在这里……”

1991年1月13日,立陶宛首都维尔纽斯的国营电视台。就在13日到来那一刻,女记者布切里蒂(48岁)的节目就那样被打断了。苏联士兵向聚集起来欲保卫电视台的群众开枪,多人受伤。布切里蒂回顾了那段历史,称“观众不停地打电话进来告知苏联军队的动向。我虽然不明白正在发生什么,但知道大家该做什么事。当时我想若很多人聚集在一起,军队就不敢开枪了。”

13日夜里,音乐家扬卡乌斯卡思(74岁)从医院处获悉长子洛朗达斯的噩耗,当时洛朗达斯22岁。洛朗达斯在数日前加入了保卫议会和电视台的群众队伍,当天与小他三岁的弟弟一起,在电视塔外的人群中。

“遗体横放在医院病床上,惨不忍睹。我儿子脑袋被子弹击中负伤倒地,随后胸口被坦克碾压过去。”,卡乌斯卡思说道。其长子于1989年9月服完兵役后,刚开始离开父母身边去大学读书。

“你为他感到自豪吗?”,对于记者(远藤)的这个问题,年老的音乐家只是流着泪点头。

▼ 大门也吹飞了
1985年就任苏共总书记的戈尔巴乔夫(90年3月改任苏联总统)打出“改革”( Perestroika)口号,推进言论自由化,还引进了西方的差额选举制。1988年,立陶宛成立了全民性的民族运动团体“萨尤迪斯”(Sajudis)。1990年2月,“萨尤迪斯”在共和国最高会议(议会)选举中压倒性胜出。翌年3月,立陶宛率先在苏联的15个加盟共和国中发表“独立宣言”;波罗的海三国中的爱沙尼亚和拉脱维亚紧随此后,相继发表了“独立宣言”。

“戈尔巴乔夫想开窗放风进来,结果风把门都吹飞了。”,立陶宛原总统侍从副官比埃里尼斯如是说。他指出:“波罗的海三国的独立运动之所以激烈,是因为这几个国家拥有‘国家记忆’。”

波罗的海三国是受俄国革命(1917年)影响后,从沙皇俄国独立出来的。然而,基于德国与苏联秘密签订的两国在东欧巴尔干各国划分势力范围的“里宾特洛甫—莫洛托夫”协定,1940年,波罗的海三国被苏联合并。这段历史就是前述所谓‘国家记忆’的来龙去脉。

1990年那时,戈尔巴乔夫陷入了三重困境—保守派与改革派的对立,经济危机的加深,各加盟共和国民族运动的高涨。戈氏为了摆脱危机,与保守派合作,倾向走强硬路线,期间就发生了“流血星期日事件”。

立陶宛发生的有组织的拒绝征兵,成了苏联实施武力弹压的借口。

那起事件中,立陶宛的亲苏势力“国家救济委员会”宣布已夺取国家权力,但“维尔纽斯市民一直保护着议会,国营电视台在议会和第二大城市考纳斯继续播送新闻。”(布切里蒂语)

▼保守派技穷
事后,苏军从街头撤离,局势开始恢复正常;随着到了8月,在俄罗斯终于等到了保守派发动的政变,结果政变失败。然而,在此期间,苏军未能踏出攻打议会这一步,就已暗示了保守派的技穷及8月政变失败的必然性。


前文提及的比埃里尼斯称,“立陶宛展示了旧体制崩溃的潮流。‘流血星期日’是苏联体制的‘终焉,及始焉’”。这起流血事件过去还不到1年,共产主义的大本营—苏联就轻而易举地遭到了“土崩瓦解”的 命运。
                   

东西冷战的“一翼”—苏联的崩溃算来到年底就满20年了。我们回顾历史性事变的节骨眼,向大家传递今天仍然抱着共产主义“遗产”的各地现状。

【苏联崩溃的主要动向】
1991年1月13日  立陶宛发生“流血星期日事件”
          2~3月  波罗的海三国就是否独立举行国民投票
          6月12日 叶利钦当选俄罗斯共和国总统
          8月18~22日 苏联保守派发动政变
          12月8日 俄罗斯、乌克兰、白俄罗斯宣布苏联灭亡,并成立独联体(CIS)
               25日 戈尔巴乔夫辞去苏联总统
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本帖最后由 showcraft 于 2011-3-2 16:42 编辑

【ソ連崩壊20年-解けない呪縛-】 プロローグ(上)「血の日曜日」鎮魂の祈り 旧ソ連リトアニアの首都ビリニュスにあるテレビ塔の周囲が12日夜、鎮魂の炎に赤く染まった。吹雪の中、数千人の老若男女が訪れ、祈りをささげてろうそくに火をともす。20年前の1月13日未明、独立を求めるリトアニアにソ連が武力介入し、テレビ塔などの施設を守ろうとした14人が死亡、140人以上の重傷者を出した「血の日曜日事件」の犠牲者を弔う炎だ。
 100キロ離れた地方都市から児童20人を引率してきた女性教諭(38)は「当時、大学生の私も最高会議(議会)の守りに加わった。今は国境を越えて自由に動ける。私たちが夢見た自由の価値を子供たちに伝えたい」と語った。追悼行事ではクビリウス首相やユクネビチエネ国防相も献花し、独立堅持への誓いを新たにした。
 市民の牙城となった議会前では、独立運動の中心にいたランズベルギス元最高会議議長が演説し、「人々が恐れていたら、欧州の歴史と地図は今と違うものになっていただろう」と歴史的意義を強調した。
 1991年1月8日、ソ連軍はリトアニアで高まる独立運動に対し、空挺(くうてい)部隊を投入。13日未明にはテレビ塔や国営テレビ局の制圧に乗り出し、集まっていた群衆に襲いかかった。
 「血の日曜日事件」は当時のゴルバチョフ政権の改革が行き詰まり、もはやソ連体制の維持が困難な段階に入ったことを強く印象づけた。
 事件を主導したソ連守旧派は8月にクーデターを試みて失敗、9月にはバルト三国が一斉に独立を勝ち取り、ソ連は電撃的解体へと突き進んでいく。
                   ◇
 ■改革失速「終わりの始まり」
 ▼癒えぬ悲しみ
 「視聴者の皆さん、これが最後の情報です。テレビ局は占拠されました。兵士たちがビルの中を徘徊(はいかい)しています。私たちはここにとどまります…」
 1991年1月13日、リトアニアの首都ビリニュスの国営テレビ局。ちょうど13日に日付が変わった頃、女性ジャーナリスト、ブチェリテさん(48)の番組はこう打ち切られた。局を守ろうと集まっていた群衆にソ連軍が発砲し、多数の負傷者が出ていた。「視聴者からはソ連軍の動きを知らせる電話がひっきりなしにかかってきた。何が起きているかは分からなかったが、皆がすべきことを理解していた。人がたくさん集まれば軍は撃てないと考えたのです」とブチェリテさんは振り返る。
 音楽家のヤンカウスカスさん(74)は13日昼すぎ、病院から長男、ロランダスさん=当時(22)=の悲報を受けた。長男は数日前から議会やテレビ局を守る群衆に加わり、この日は3歳下の弟とともに、テレビ塔を囲んでいた。
 「病院の床に横たえられた遺体はあまりに凄惨(せいさん)だった。発砲で頭部を負傷して倒れ、胸を戦車にひかれたのだ」とヤンカウスカスさん。長男は前年の9月に兵役を終え、親元から大学に通い始めたばかりだった。
 「長男を誇りに思うか」との記者(遠藤)の問いに、年老いた音楽家はただ涙を流して首を縦に振った。
 ▼ドアも吹き飛んだ
 85年就任のゴルバチョフ共産党書記長(90年3月にソ連大統領)が打ち出したペレストロイカ(改革)で言論の自由化は進み、複数候補制による選挙も導入された。リトアニアでは88年に国民的な民族運動体「サユジス」が設立され、90年2月の共和国最高会議(議会)選挙で圧勝。同国は翌3月、ソ連の15共和国の中で真っ先に「独立宣言」を発し、バルト三国のエストニアとラトビアがこれに続いていく。
 「ゴルバチョフは窓を開けて風を入れようとしたが、ドアまで吹き飛んでしまったのだ」。リトアニアのビエリニス元大統領補佐官はこう述べ、「バルト三国の独立運動が強かったのは『国家の記憶』があったからだ」と指摘する。
 三国はロシア革命(1917年)を受けて帝政ロシアから独立。しかし、ドイツとソ連が東欧・バルト諸国の勢力圏分割を約した秘密議定書「モロトフ・リッベントロップ協定」(39年)に基づいて、40年にソ連に併合された経緯がある。
 ゴルバチョフ氏は90年当時、守旧派と改革派の対立▽経済危機の深化▽民族運動の高まり-の三重苦で窮地に立たされていた。ゴルバチョフ氏が危機脱却のため、守旧派と組んで強硬路線に傾く中で起きたのが「血の日曜日事件」だった。リトアニアでの組織的な徴兵拒否が武力弾圧の口実とされた。
 事件では親ソ勢力の「国家救済委員会」が権力を奪取したと発表されたが、「ビリニュス市民は議会を守り続け、国営テレビは議会と第2の都市カウナスから放送を続けた」(ブチェリテさん)という。
 ▼守旧派の限界露呈
 ソ連軍が街中から引き揚げ、情勢が正常化に向かうには8月、ロシアにおいて守旧派が起こしたクーデターの失敗を待たねばならなかった。しかし、この間にソ連軍が議会の攻撃に踏み切らなかったことは、守旧派の限界と8月クーデターの失敗をも示唆していた。
 前出のビエリニス氏は「リトアニアは古い体制が崩れる潮流を示したのだ。『血の日曜日』はソ連体制の『終わりの始まり』となったのではないか」と話す。この流血事件から1年もたたぬうちに、共産主義の総本山、ソ連はあっけなく崩壊する運命にあった。
                   ◇
 東西冷戦の一翼を担ったソ連の崩壊から年末で20年。歴史的事変に至る節目を振り返り、いまなお共産主義の“遺産”を抱え続ける各地の現状を伝える。(ビリニュス 遠藤良介)
                   ◇
【ソ連崩壊に向けた主な動き】
1991年1月13日 リトアニアで「血の日曜日事件」
      2~3月 バルト三国で独立の是非を問う国民投票
     6月12日 エリツィン氏、ロシア共和国大統領に当選
  8月18~22日 ソ連守旧派クーデター
     12月8日 ロシア、ウクライナ、ベラルーシがソ連消滅と独立国家共同体(CIS)創設を宣言
       25日 ゴルバチョフ氏、ソ連大統領を辞任
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